セヴェンヌ地方(ガール 県)は 貧しい土地で、活性化のために 昔から 移民を受け入れてきた。
セヴェンヌに住んでいる人びとは 農家で、その中でも ずっと昔からいたフランス系と、移住してきた スペイン系の人びとに分かれる。
この もとからいる人びとを アンディジェンヌ という。
なかのけん:ボンジュール 南仏のヒッピーさん
画家を志すひとりの「サムライ」が、ヒッピーと共に南仏で過ごした10年間の青春の記録。
ヒッピーとの生活を、おもしろおかしく語ります。
セヴェンヌ地方(ガール 県)は 貧しい土地で、活性化のために 昔から 移民を受け入れてきた。
セヴェンヌに住んでいる人びとは 農家で、その中でも ずっと昔からいたフランス系と、移住してきた スペイン系の人びとに分かれる。
この もとからいる人びとを アンディジェンヌ という。
セヴェンヌ には パリや大きな都市から、多くの若者が移ってきた。
フランスでは 1968年に5月革命が起き、フランス中、特に パリでは 学生が大きな力を持ち( 日本ではこのことを学生運動といった)、学生たちの思想に賛同したインテリゲンチア、ノーベル賞をもらった作家 ジャック・モノらをも引き込み、「革命」を展開した。
そして この「思想革命」が終わると、私の想像であるが、多くの学生が 都会の生活に虚無感を感じ、 太陽、よい空気を目指し、南下したのです。
話を聞くと、彼らは いいとこのお坊っちゃま、お嬢ちゃまのようです。
頭では 理想を描いているが、どうも 現実とのギャップを嫌う、頭でっかちというと怒られそうだが、 やはり 頭でっかちなのである。
彼らは 自分たちのことを ヒッピーとはいっていない。
セヴェンヌ 地方の アンディジェンヌが 彼らのことを ヒッピーと呼んでいるのです。
彼らの特徴といえば、考え方は いつも 反社会的。
これは 変わらない。
私は 南仏に来る前に、1970年から75年まで パリ国立高等美術学校に5年在籍していたので、フランス語は ある程度話せたのです。
でも これまでの道程は、意外とむずかしかっ た。
語学学校にも半年ばかりいたが、1か月で進級するクラスを3、4か月も進級できなかった。
はっきりいって 絵のほうを勉強したくて、語学は 半ばあきらめていました。
そして 美術学校に入ると フランス人の学生が、粋がってさかんに I' argot( アルゴ)を使って話しかけてくる の です。
一般的には I' argot は下品な言葉。
日本語で 彼女のことを「スケ」とかいうと まったく粋でないが、I' argot で julieというと、これが 本当に粋なのです。
とくに フランスに来たての私が julie とかいうと 大受けをして みんな大声で笑うので、私はしめしめこれだと確信し、 I' argot を勉強することにした。
I' argot をフランス人に話すと、大受けも 大受け、みんな大笑いして喜んでくれる。
私は 下品な面白い日本人に変身したのです。
こんな理由で 私のボキャブラリーは日増しに増えていった。
I' argot は 本来、下町の商人が使う言葉で、貧しい人々が「 嘆き」を入れて話す言葉なのです。
美術学校でも「変な日本人が来た」ということで人気が出てきた。
こんなきっかけで 私の「生き た」フランス語は上達していった。
I' argot を勉強することによって 一種の「 い やし」 になり友達も増えた。
パリの生活が楽しくなった。
私は フランス語を得意げに話すようになった。
ありがとう I' argot!
私も だんだんガール地方のなまりも覚え、ヒッピーとの交流も盛んになってきた。
アンデューズの市場に買い物に行くと、やはり 黄色人種の私は目立つせいか、ヒッピーが話しかけてくる。
よくよく話してみると、ヒッピーは みんな1968年の「革命家」と思っていたが、脱サラしてきた人もいた。
写真店のアランも 脱サラであった。
彼らは 生活がきびしいので、決して楽しい話をしてはいけない。
「 今日 、車で山に栗を採りにいったらタイヤがパンクして困った」とか、軽い日常の困った事件を話すのが一番よい。
日本的に「お前 もっとちゃんとしなさい」とかいうと、ビンタが来るのは まちがいない。
私は 車の運転免許を、近くの町 アンデューズでとっ た。
最初から運転して山道や林道、畑道をコトコト走るのであった。
そして 週に2、3 回、学科のビデオを教習所のちっちゃな事務所で見て勉強するのだ。
半年も通ったであろうか。
最初は 学科の試験がアレスであった。
まぐれだと思うが 私は合格したのである。
そして 家に帰ろうと道を歩いていると、アラブ系の少年が、私に カフェで1杯おごるというのである。
なぜ と聞くと この少年は、私の答案用紙をすべてカンニングしたというのである。
もう2回もこの試験に失敗していて、3回 目も失敗すると すべて無効になるというのである。
私を神様と思ってくれ た。
私も もちろんヒッピーに属するが、ヒッピー族は、犬が好きなのである。
いつも 車の後ろに乗せて、川に行ったり、山に行ったりして楽しむのである。
去勢手術は 当然 お金がかかるので行わない。
メスは すぐ子供ができるのである。
そして アンデューズの町に行くと「ムッシュー・ナカノ、犬をもらってくれないか」といった話が ヒッピーの中で渦巻くのである。
ロラは 2匹の子犬を産んだ。
1匹は 母親ゆずりのベージュ色、もう1匹は よく喜劇映画に出てくるような、片目の周りが真っ黒、 片方の耳の半分が白かったり、ホルスタインを犬にしたような感じである。
肉づきもよく、愛される犬なのである。
大きくなってもそれは変わらなかったが、困ったことに、この犬は 飼い主も、悪人も、泥棒も区別がつかないのである。
でも いつも機嫌がよく、椅子に座って首をあげて誇らしくしっぽを振っている姿は、なんとも愛くるしい犬なのです。
もう1匹のベージュの犬は友人にあげて、この犬 ロロ を飼うことにした。
私がバカンスに出かけたとき、ルネに留守をたのんだ。
バカンスから帰ると「なにっ」。
入り口にある電話機が、ディズニーランドの宝島のようなありさま。
つまり1フランで埋もれているではないか!
ルネに「これは なにごとだ」と聞くと、ルネは、隣のガルシア家の娘、アニータが、家に電話がないので、何十回、何百回と電話をしにきて、そのつど1フランを置いていったという。
当時、アニータに彼氏ができて、毎日 何回となくその彼に電話して、それで電話機がこんなありさまになったらしい。
ちょうど電話代の請求書が来ていて、おどろいた。
1フランを集めても、この額には達しない。
私は さっそくガルシアに「こりゃひどすぎる」といいにいったが、口数の多いガルシアは、ちょっとあやまったりしたが、なんとなくいいくるめられたといおうか、うやむやで終わってしまった。
結局、私は 集めた1フランの10倍以上、お金を払うことになった。
ルネは 申し訳なさそうな顔をしていた。
セヴェンヌ地方は こんな「風」が吹くところなのです。
私は ある程度 車に興味を持っていたので、アレスの街を プジョー 403で走っていると、歩道と車道をまたぐように、ロールス・ロイスが止まっているのに気がつい た。
こんな貧しい街に変わった車があるなと不思議に思った。
そして 隣のパトリックに、今日 アレスでこんな車を見たというと、面白いことをしゃべってくれた。
実は、 ローリング・ストーンズがアンデューズより山のほうにある街、サン・ジャンデュガールの 古いお城を買い、ときどきやって来ているというのだ。
彼らは ロールス・ロイスを乗りまわし、そして タバコの火は すべてシートにこすりつけて消すので、車の内装はすべて黄色のハンテンになっているというのだ。
セヴェンヌ地方は マシフ・ソントラルの入り口と呼ばれ、しょっちゅう風が吹いている。
私は友人とよくテニスをしたが、やろうとしなくても すぐドロップショットになってしまう。
特に、ミストラルが吹くときは ものすごい。
画家のゴッホも この近くのアルルにいたが、ミストラルが吹く 2、3 日前になると 神経が非常にたかぶって、精神的におかしくなったという。
医者から玉ねぎは精神安定によいと聞き、なるべく食べるようにし、テーブルの上にいつもおいていたので よく絵をかいたらしい。
この車でフランスの高速道路を走っていると 後ろからクラクションが鳴り「 この ペ ペ( じじい) 速くとばせ」といわんばかり。
しかし スイスの高速道路を走っていると、みんな クラシックカーと勘ちがいし、窓から首を出して ふりかえって見る。
ここが笑っちゃう。
フランスでも 同じ型の車とすれちがうことはめったにない。
となると、修理のときはたいへんな車なのである。
マスドォマントゥというところに、ジスカール・デスタン元フランス大統領のいとこといわれている マダム・カレールが、夫と子供たちと住んでいた。
「本当にそうですか」と 野暮な質問はできなかったが、背が高く、美しく、風格があった。
ちょっとしたことで知り合いになり、私の絵の写真を見てたいへん気に入ってくれた。