私のフランス語

私は 南仏に来る前に、1970年から75年まで パリ国立高等美術学校に5年在籍していたので、フランス語は ある程度話せたのです。


でも これまでの道程は、意外とむずかしかっ た。

語学学校にも半年ばかりいたが、1か月で進級するクラスを3、4か月も進級できなかった。

はっきりいって 絵のほうを勉強したくて、語学は 半ばあきらめていました。


そして 美術学校に入ると フランス人の学生が、粋がってさかんに I' argot( アルゴ)を使って話しかけてくる の です。

一般的には I' argot は下品な言葉。

日本語で 彼女のことを「スケ」とかいうと まったく粋でないが、I' argot で julieというと、これが 本当に粋なのです。

とくに フランスに来たての私が julie とかいうと 大受けをして みんな大声で笑うので、私はしめしめこれだと確信し、 I' argot を勉強することにした。


I' argot をフランス人に話すと、大受けも 大受け、みんな大笑いして喜んでくれる。

私は 下品な面白い日本人に変身したのです。

こんな理由で 私のボキャブラリーは日増しに増えていった。


I' argot は 本来、下町の商人が使う言葉で、貧しい人々が「 嘆き」を入れて話す言葉なのです。


美術学校でも「変な日本人が来た」ということで人気が出てきた。

こんなきっかけで 私の「生き た」フランス語は上達していった。

I' argot を勉強することによって 一種の「 い やし」 になり友達も増えた。


パリの生活が楽しくなった。


私は フランス語を得意げに話すようになった。


ありがとう I' argot!

なかのけん:ボンジュール 南仏のヒッピーさん

画家を志すひとりの「サムライ」が、ヒッピーと共に南仏で過ごした10年間の青春の記録。 ヒッピーとの生活を、おもしろおかしく語ります。

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